この言葉には、気をつければミスは消せるという前提が隠れている。
だが工学の世界では、人間の誤り率はとうに測定済みである。
測定値を見れば、精神論の出る幕がないことが分かる。
慣れた単純作業でも100〜1,000回に1回は誤り、時間圧迫や高ストレス下では10回に1回のオーダーまで跳ね上がる。
誤り率は根性ではなく、測定の対象である。
しかも劣化した瞬間の本人に、劣化の自覚はほとんどない。
信頼度0.99の判断を30回直列に重ねると、全体の成功率は約0.74まで落ちる。
疲労と焦りの中の連続判断(0.9側)なら、数回重ねただけで成功率は半分を割る。
当代一流のテストパイロットがレバー一本を忘れてB-17は墜落した。
例外的な失敗談ではなく、誤り率の相場が実演された記録として読むべきである。
人間の性能を上げようとするのではなく、性能に依存しない構造を組む。
教育や注意喚起は最後の補助であり、主役は仕組みの側である。
対象を指差し、声に出して確認するあの動作は、精神論に見えて逆である。
鉄道総合技術研究所の実験では、指差と呼称を併用すると、何もしない場合に比べて作業の誤り率が大きく下がることが示されている。
これは「注意力を鍛える」のではなく、確認という行為を身体の手順に変換して、注意力への依存を減らす仕組みである。
人間の性能を信じないからこそ生まれた道具が、百年近く現場を守ってきた。
信用できないのは連続稼働時の正確さという一機能だけで、判断・関係・創造は依然として人間の主戦場だ。
仕組みに正確さを任せるのは、人間を軽んじるためではなく、人間を得意分野に専念させるためである。
経営は、その仕様を前提に構造の側を組み替える営みである。
